ドライブ・マイ・カー:「そのままの自分を差し出す」

先日、話題の映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。しみじみと心に染み入る、とても味わい深い映画でした。

この映画から伝わってくるものって、なかなか言葉にするのが難しいのですけど、

心に残った様々な言葉や場面の中から、今回は「自分を差し出す」ということについて考えてみたいと思います。

多少、ストーリーのネタバレになってしまうかもしれませんので、何一つ予備知識なくこの映画をこれから見る予定の方は、ぜひ鑑賞後にこの記事に戻ってきてお付き合いいただければうれしいです。

映画「ドライブ・マイ・カー」

「ドライブ・マイ・カー」は、ご存知のように、村上春樹の短編小説が原作で、先日アカデミー賞外国長編映画賞を受賞した話題作。妻と死別した舞台演出家の主人公が、深い喪失の縁から新しい人生へと踏み出していく物語です。

わかりやすいナレーションもなく場面を盛り上げる音楽もほとんどなく、淡々と紡がれるこの作品、上映時間も約3時間と長く・・・とくると、「退屈しちゃうんじゃないか、寝てしまうんじゃないか」と実は心配しながら見に行ったのですが、

いやいや退屈どころか、言葉や表情、風景などのひとつひとつが味わい深く、最後まで目が離せませんでした。

ただ、この映画を堪能するには、自宅でビデオ鑑賞よりは、映画館で観るのが絶対おすすめ。たぶん家では、この物語世界に身をゆだねて味わうのは難しいんじゃないかなと思います。

「自分を差し出す」という言葉

さて、「自分を差し出す」という言葉が、物語の中盤で出てきます。(一回しか見ていない映画なので、記憶違いの所があるかもしれませんが、ご容赦ください)

舞台演出家である主人公・家福は、「ワーニャ伯父さん」の舞台を演出することになり、役者たちと稽古を重ねていくのですが、

ワーニャ役を演じることになった若い俳優が自身の戸惑いを家福に告げます。「ワーニャ伯父さん」の世界に入り込み役になりきることができない・・・といった趣旨のことを話すんです。

そのとき家福が言ったのが「自分を差し出すんだ」という言葉です。


君は実生活で、自分の感情や衝動に身を委ねて行動している。舞台でもそうすればいい。自分自身を観客に差し出すんだ。
そんなふうなことを、家福が言うんです。

その後、若い俳優は、ある事件や家福との会話を経て、自分を舞台上でもさらけ出すことができるようになっていき、私生活でも「逃げも隠れもしない」という態度を貫いていくことになります。

 

この映画、繰り返し胸によぎって反芻したくなる場面やセリフがいろいろあるんですけど、

その中でも「自分を差し出す」という言葉が私に特に強い印象を残したのは、たぶん、私が「自分を差し出す」という生き方ができていないから だろうという気がします。

「自分を差し出す」の意味

「自分を差し出す」というのは、どういうことなんだろう。

この言葉を受け取る人によって、意味は違ってくるんでしょうけど、ここ数日、心に反芻し考えたことを書いてみます。

 

自分を差し出すというのは、生のままの自分を、そのままさらけ出すということ。

「いい恰好をして、綺麗な姿、理想化した自分を見せて褒められたい」というのとは対極の姿。

 

私はいい恰好をしたいんですよね、どうしても。人から褒められたいし、認められたい。そう思ってしまうんです。

でも、結局、その虚像が、自分を苦しくさせてしまうんじゃないかという気がします。
現実の、素のままの自分との乖離・・・これが大きくなってしまうと、いつも無理をして自分を偽ってしまうことになる・・・

素のままの自分を認めること

もちろん、「こうなりたい、こうありたい」っていう理想を持つのは悪いことじゃないですよね。

人に知られたくない秘密を持っているのも当たり前のことで、いつでも誰にでも自分の全てを見せるなんてのは、露出狂みたいなものでむしろ不健全だとも思います。

 

そういうことじゃなくて、

「自分を差し出す」とは、もっと平たい言葉で言うと、「そのままの自分でいよう」ということかもしれません。

 

「私はこういう人間です。私は今、こんなふうに感じています」ということを、そのまま、素直に、まずは自分で認めること。

飾らず、おごらず、自分のままでいること。

理想は理想として心に描き、だけど、それと自分自身とを混同しないこと。
そして理想とかけ離れた自分を、実際以上に卑下せず、自分を自分として認めること。

秘密を隠しておこうと思う自分に素直になり、秘密を誰かに見せたいと思うならその想いに素直になり、

「今、この瞬間」の自分の気持ちに、ちゃんと気づくこと。

「そのままの自分」に気づくために


そのままの自分に気づく。

それは簡単なことじゃありません。気づけないから、そして素のままの自分を認められないから、みんなしんどい思いをしているんですよね。

以前、私は、絵を描くことで「あれっ?私ってこんな人間だったの」と、自覚していなかった自分に気づく経験がありました。
それがきっかけになって、アートセラピーを学び、アートセラピストになったわけですけど、

今でも、忙しい日々の中、自分を置き去りにして頑張ってしまうことが多いんです。
例えば、アートセラピーのセッションのために準備をしているけど、自分のためのアートをやってない・・・なんてことが、しばしば起こります。いわゆる「医者の不養生」的な現象ですね。

もっと、自分のための時間を取ろう。そんなことを思っています。

以前、絵によって自分を知ることになったエピソードは、よかったら、こちらの記事をどうぞ。

 

そのままの自分を差し出す、その先に

例えば、ブログを始めてから、なんだかずっと、背伸びをしてきたような気がするんです。「役に立つ記事」を書かなくちゃいけない、って思って、自分にとって役立ったなと思うことを、シェアするような気持ちでやってきました。
でも、たぶん、いつも実際の自分よりも少し上のところで、やってきた気がするんです。

これからは「自分を差し出す」っていうことを、心がけていこうと思います。

いつも等身大の自分でいる。
今感じていること、今考えていること、今悩んでいること、それをそのまま差し出していく。
それが誰かの役に立つかどうかはわからないし、単なる自己満足にすぎないということになるのかもしれないんだけど。

でも、役には立たなくても、「自分と近いな」って感じてくれる人と、つながっていくきっかけくらいは、もしかしたら作れるんじゃないかな。そんなふうに思います。

 

 

今回は、映画「ドライブ・マイ・カー」を契機にして「自分を差し出す」「素の自分でいる」ということについて、心に浮かんだことを書きました。

今後も、こんな調子で、まとまりなく、自分の思いを綴っていきますので、よかったらお付き合いください。

 

 

 

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