自己の多元化:「異なる場での、ちがう私」であっていい

 

場面が変われば自分が変わる。そんな経験はありませんか?

職場での私。家庭での私。友達と一緒にいる時の私。きっとそれぞれ、異なる姿があるのではないでしょうか。

かつては、場面や相手によって自分が変わることは「裏おもてがある」とか「一貫性がない」とか言って、良くないことと捉えられがちでしたが

現代では、むしろ「違う場では違う自分」という自己の在り方のほうが自然だ という見方が、一般的になってきているようです。

この記事では、「場面や状況によって異なる複数の自分がいる」という考え方、「多元的な自己」について、さらに「対話的自己」について書いています。自分の有り方について参考になれば幸いです。

多元的な自己とは

現在私は、大学院で「アートを使った自己コミュニケーション」について考え、学んでいます。

その学びの中で、「自己とのコミュニケーション」というけれど、
さて、では「自己とはなんぞや?」ということを考える必要があるよねということになり、自己論の関する本を探して読んだりしてきました。

その中で、私にしっくりきたのが「多元的な自己」という考え方でした。

簡単に言えば、

「異なる状況では、異なる自分がいる」

「私は、異なる複数の「私」の複合体なんだ」

ということになるかと思います。

多元的な自己、たとえば

例えば、職場では私は、年齢的にある程度リーダー的な働きを求められることが多くなり、たぶん「しっかり者」と見られていると思います。(実際には抜けたり失敗したりして、助けてもらうことだらけなのですが・・・)

職場にいる「私」は、全体の動きを見たり段どりを考えたりしながら動く私です。

 

家庭にいる「私」は、その反動か、けっこう「んもー、めんどくさいな~」とだらけることが多い私です。

そして、同じ「場」であっても、そのときどきで、感じ方や考え方が変わってきたりもしますよね。

 

夫と過ごす私と、子どもたちと過ごす私は違うし、
子どもは子どもでも、長女と一緒にいるときの私と、次女と一緒にいるときの私では、また少し違う気がします。

現代的、日本的な「多元的自己論」

一元的な自己

 

かつては、特に欧米では「自己は一貫していなくちゃいけない」という考え方が主流でした。

どんな場面、どんな状況でも変わらない、揺らがない、確固たる自己を確立することが人生のテーマだ という感じだったわけです。

 

ただ、そんな「一元的な自己論」が主流だったのは1970年代頃までだったらしくて、つまりその時代ってすでに50年前のことなんですよね。

欧米で「自己は多元的なもの」という考えが受け入れられるようになってから久しく、

そして、もともと日本には「場の空気を読んで、合わせる」という感性が美徳とされてきた文化風土がありましたから、現代日本で「場面や状況によって違う複数の私がいる」という考えは、とても受け入れやすいものなのではないでしょうか。

一貫した自己であろうとする苦しさ

にもかかわらず、
「自己は一貫していなくてはいけない」という「信念みたいなもの」は、いまだにガッチリ心に根を下ろしていて、

そのために「こんな私は、本当の自分ではない」と感じ、「自分さがし」の「心の旅」をしてしまう人がいる。それはとてもつらいことだと思います。

この私も、あの私も、全部ひっくるめたものが、自分。
そう思う方が、「一貫性を持ったひとりの”本当の私”」を追い求めるよりも、ずっと気楽でいいなと私には思えます。

対話的な自己


多元的自己論のひとつである「対話的自己」を提唱したハーマンス&ケンペンは、

異なる立場の「私」と「私」の間に対話を紡いでいくことが、自己を作っていくんだと言っています。

 

例えば、「家庭にいて幼いわが子のそばにいてあげたいと思う私」と、「社会でバリバリ働きたい私」がいると想像してみましょう。

これらは、どちらも自分で、自己内世界にそれぞれ位置を占めています。

 

この二つの私はそれぞれが声を持っているんですが、現時点では、それぞれの言っていることは相反する内容ですよね。

心の中に対立や葛藤が生まれている状況です。

このような「自己内の不調和」は、誰もが経験したことのある状態ではないでしょうか。

自己内世界のさまざまな声を聴く

そして、相対する声を持っている二つのポジションとは別の、「それぞれの声を聞いている私」もいます。

「あー、子どものそばにいたいって思ってる私がいるよね」
「ああ、働きたいって思ってる私もいるなあ」って、
それぞれの声に気づいている別の私、
その「気づいている存在」を、ハーマンスらは第のポジションSelfと呼びます。

 

Selfの「メタ認知」的な働きによって、自己内の「私」と「私」の声が拾い上げられ、対話が生まれ

こうして、異なる自分同士の「すり合わせ」が行われていきます。

この「自己内対話」という内的な作業によって、統合体としての自己が形づくられていく と考えられています。

自己とは、クラスみたいなもの

「統合的な自己」というと、また「一元的な、ひとつの自己」みたいに聞こえますが、

そうではなくて、学校に例えて言うなら、「統合的な自己」はクラスで、「異なるそれぞれの私」はクラスのメンバーひとりひとり という感じになると思います。

話し合いによって、まとまりがありつつも一人一人が生き生きと活動できるクラスを作っていく、ってイメージでしょうか。

おわりに

今日は「多元的な自己」特に「対話的自己論」について、私が学んでいることを自分なりに整理してみました。いかがだったでしょうか。

説明しようとすると難しくて、ゴチャゴチャしてしまいましたが、これからも少しずつ考えをまとめていきたいと思います。
不勉強な点がいろいろありますので、ご意見やご指摘をいただければ幸いです。

 

「対話的自己」に関しては、以下の記事もよかったらどうぞ。

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