
先日、興味深い記事を見ました。
アメリカで、キリスト教会のある牧師が解任されたというニュースなのですが、その解任の理由というのがすごい。なんと、「ドラァグ・クイーン姿でTV出演したから」なのです。
つまり「牧師はそんなことするべきではない」、言い換えると「牧師らしくない」という判定がされたわけです。
今回は、このニュースから、「らしさ」について考えてみたいと思います。
「ドラァグ・クイーン姿の牧師」事件

この牧師、デュークさんは、アメリカ、インディアナ州の教会で勤めていました。
彼はLGBTQ理解を呼びかけるためにTV出演をしたのですが、そのとき、ドラァグクイーンの姿で出演したのです。スパンコールの付いたレオタード、ロングブーツ、口紅と紫のアイシャドー、ピンクのウィッグといういでたちで、首には大きな十字架のネックレスをつけていたとのこと。
その映像を検索して見てみましたら、うん、なかなかのインパクトでした。
このTV出演後、教区に非難のメールや電話が多数寄せられて、デュークさんは解任されました。

しかし彼は「後悔していない」と言い切っているとのこと。
「牧師として、自分と異なる人々を導きたいなら、異なる人々がいる場所に行くべきだ」「LGBTQコミュニティーへの理解が神の愛の輝きのように広がっていくことを願っています」と語っているそうです。
時事ドットコムニュース2021年12月23日の記事は、こちらです。
https://www.jiji.com/jc/article?k=20211213042389a&g=afp
非難を承知で行動する勇気

このニュース、どう思われますか?
私は、この牧師の行動は、むしろ賞賛に値すると思います。「異なる人々」の中に飛び込んでいくための方法としては、お勧めはしませんけど・・・
初め、このニュースを知ったときは、若い牧師が勢い余ってやったことなのかと思ったのですが、デュークさんは62歳。この行動が物議をかもすだろうことは、予想していたでしょう。
普段のデュークさんがどんな人かは知らないし、どういういきさつでこのTV出演に至ったのかもわからないんだけど、少なくとも、その場のノリや勢いではなかったはず。TV出演までに、いろいろ考え、準備をして臨んだはずです。
誰かに相談していたとしたら、普通は「やめとけ」って言われるでしょうし、何の悩みも葛藤もなくドラァグ・クイーン姿での出演をしたわけじゃないだろうと思うんです。

普通は、やらないよね。
でも、彼は信念をもって、決断し、行動した。そこがすごいと思うんです。
「らしさ」という思い込み

非難する人たちの心情も、わかる気がします。だって、「牧師」「聖職者」のイメージに合わないですよね。
でも、その「イメージ」って、なんなのだろう?「牧師らしさ」って、そんなに大事なんでしょうか?
現代においては、硬直した「伝統的イメージ」のせいで、多くの人が苦しんでいることに気づき始めています。
「女性らしさ」「男性らしさ」のイメージ。
「異性愛が正当で、同性愛はアブノーマル」というイメージ。
「子どもは母親が家庭で養育するのが最善」というイメージ。・・・挙げていけばきりがない。
この、思い込んだイメージの「縛り」を解き放とうという趣旨の、LGBTQ理解を訴えようとする番組だったわけですよね。
牧師がドラァグ・クイーン姿で出てくるのは、ショッキングではあるでしょうけど、別に問題ないのでは?
デュークさんが、教会の礼拝で説教をするときにこの扮装だったら、それは場に応じたマナーという点でまずいでしょうけどね。

彼は「牧師として行動したんだ」と言い切っています。
つまり、世間や教区が表面的な「牧師らしさ」を重視しているのに対して、デュークさんは「本来、牧師はどうあるべきか」という本質的なところを大事にしているのです。
「らしさの呪縛」からの解放

解任はされましたが、その後、デュークさんを支持する声や募金もまた、多数集まってているそうです。
世の中の価値観が大きく変化していく時代。その中にあっても、大多数の人はその流れをつくり出す先頭に立つよりは、誰かが切り拓き整えてくれた後にしか行動しません。
私も、先頭でまともに大波を被るのは、嫌だなと思ってしまう一人です。偉そうなことは言えません。でも、せめて、足を引っ張ることはするまいと思います。
そして、ささやかながら、周りの人たちに思いを伝えることをしていきたい。こういう小さな声が、大きな流れに繋がっていくと思うから。

「らしさ」という呪縛は、LGBTQに限らず、誰の心にもあるものです。
自分を苦しめる縛りを解いて、自由に、「本来の自分」になっていく過程を、少しずつ進んでいきたいですね。
「らしさ」に関連して、次の記事もよかったらどうぞ。
